沖縄式豆腐のうちなーとうふ、 うちなーのゆしどうふ販売なかむら食品

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職人「仲村正雄」職人「仲村正雄」

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沖縄の伝統を後世に伝えたい。沖縄


 仲村が25歳の時、沖縄大学経済学部にて「沖縄の産業」を学ぶ機会を得、独自の文化に深く興味を持つ事となった。
 資源の少ない沖縄で、伝統を守るには土地に相応しい事業を興すしかないと考えた。
 生まれ育った土地は旧知念村(現在は沖縄県南城市知念)、琉球王朝時代より第一の聖地がある土地と知られ、世界遺産にも登録されている。
 知念は湧き水が出て空気が綺麗、この恵まれた土地で伝統を守るのに最適なものがあった。
 家庭で豆腐を造ることが当たり前だった少年時代、見よう見まねで覚えた豆腐造り、「あの味を守りたい」 この時の仲村の決意は現実のものとなる。
 しかし、豆腐造りの未来には危機感も抱いていた。 手造りがゆえに生産が伸びず身近な地域への出荷で精一杯、賞味期限の問題からも遠方への出荷は困難で本土の大量生産豆腐に対抗策を講じられない。 地釜で造られる豆腐は伝統の味を守り続けているが後継者が育たず廃業が進んでいる。 
 「大切なのは製法だけではないはずだ。後継者問題を解決させ、伝統の味を維持しながらも沖縄に親しまれる豆腐を次の世代に残していく事だ。 そして、大量生産を実現させ、本土の豆腐に対抗していく事だ。」 危機感は日々の苦悩の末に具体的な目標へとなっていった。

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淘汰される業界に、今一度「革新的な風」を。淘汰される業界に今一度「革新的な風」を。


 目標が定まった仲村は本来持ち合わせていた職人気質も手伝って、豆腐造りも順調に進んでいた。
 しかし、仲村は大きな悩みを抱えていた。 それは早くから芽生えた経営者としての自覚だった。  本物の味は絶対出来る。
 その自信はあったがそれを売り込むための力がない、そう感じたのだ。 
 仲村は即行動に出た。 「営業力」を高めるため、当時から製造はもちろん営業評価の高かった沖縄トヨタに就職したのだ。
 職人気質の仲村が自営を決意できる営業力を得るまで5年を要したが、この経験は「なかむら食品」が県内唯一の沖縄豆腐自動製造ラインを成功させる原動力となる。
 トヨタを退職した仲村は、豆腐造りに専念する前、さらに大きな課題に取り組んだ。
 それは「売り方」である。 営業経験を得た仲村は、その中で販売促進の重要性を知った。 陳列される商品を手に取る顧客の心理は様々、食べて頂くためには買って頂かなくてはならない。 淘汰される豆腐業界に革新的な風を吹き込むには、そのような当然の事であっても専門的に取り組み、習得する必要性を感じたのである。
 迷いはなかった。 幾つかの代理店を経験し、自営の心得と販売戦略を体で覚えた。
 そして昭和59年、仲村40歳の時「なかむら食品」を創業 職人仲村正雄の誕生の年でもあった。

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目的は機械化じゃない、伝統の味を守ることだ。目的は機械化じゃない、伝統の味を守ることだ。


 仲村の豆腐造りは「石うすや地釜」を使った伝統的な製法から始まっているが、その先には常に「自動製造ラインの構想」があった。 地道な努力によって事業も好調だった平成4年には「沖縄豆腐自動製造ライン構想計画」を具体的に開始し、平成7年にはラインコンピューターの開発まで着手する事が出来た。
 平成10年、自動製造ラインの実現を確信し、新工場建設の計画を開始
 仲村の夢は日を追うごとに形になっていったが、その頃、県内豆腐業界に変化が起きていた。 「本土の自動製造ライン」を導入し始めていたのである。
 これにより大量生産された沖縄豆腐が市場に出回った。 この時点で伝統的製法を守る小規模豆腐店の多くは廃業を余儀なくされ、業界は揺れた。
 仲村は出会う人々に想いをぶつけた。「本土の製造ラインは本土の豆腐を製造するために設計されている。それのどこが伝統の味を守っているのだ」と。 この視点は問題を的確に捉えていた。
 本土の機械でそのまま沖縄豆腐を製造していた県内最大手が苦戦し始めたのである。 沖縄豆腐の味が造れなかったのだ。
 平成11年、なかむら食品を「有限会社なかむら食品」に改め、翌年には念願の新工場完成、同時に「沖縄豆腐自動製造ライン」を稼動させた。
 仲村の価値観に賛同した名古屋メーカーから機器本体を取り寄せ、これを基盤にしたことも開発を早めた要因となった。
 同時期には「沖縄豆腐の製造方法および製造装置の改善」により、職域における創意工夫功労者として 「科学技術庁長官賞」を受賞している。
 目指したのは後継者問題を解決し、伝統の味を後世に伝えること、機械化が目的ではなかった。 その証拠に、この自動製造ラインで造られた沖縄豆腐「うちなーとうふ」は一切の広告を必要とせず、口コミだけで販売数を伸ばし続けている。

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最高峰の料理人が認める味。最高峰の料理人が認める味。


 沖縄豆腐を自動製造させ、伝統の味を後世へ伝えるための準備は整った。
 しかし、仲村は不安を感じていた。味にも自信があり、予想以上に売れ行きもいい、しかし、本当に納得して買って頂いているのだろうかと。 仲村は買い物客の本音を聞きたいと頻繁に取引先の食品売り場へ向かう事となる。
 ある時、仲村の商品を手に取った買い物客に聞いてみた。「なぜ他にも安い豆腐がたくさんあるのに、この豆腐を買うのですか」
 買い物客は答えた「確かに他にも安い豆腐はあるけど、調理の途中で崩れたり家族が残してしまったり、結局高くつくさ」と。
 この時の出来事はこれまでの不安を取り除くのに十分であったものの、何かが足りなかった。 それはプロの料理人から見た品質への感想、つまり確信が欲しかったのだ。
 仲村の盟友に「料理人 (故)親川 幸男 氏」がいる。 彼は料理人として最高の栄誉を幾度となく受賞し、その業界では知らぬ人はいないと言われた偉人だった。
 沖縄豆腐にかける仲村の情熱に触れ、親川氏は協力を自ら申し出てくれた。 これにより、なかむら食品の豆腐は彼の味覚にかない、一般消費者だけではなく、プロにも通用する最高の仕上がりとなったのである。
 一般消費者と料理のプロが豆腐の品質を認めた。 そして、仲村の心は「確信と自信」に満ちた。

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土地を愛し土地に生かされているからこそ、この沖縄のために。土地を愛し土地に生かされているからこそ、この沖縄のために。


 仲村は土地を愛し、土地に生かされている事を実感している。 豊かな恵みによってもたらされた伝統の味が、多くの家庭を支え、自分と事業に携わる者たちの人生を支えているからだ。
 仲村は沖縄という土地に感謝し、恩返しをしたいと思っている。 それが「沖縄豆腐全国出荷」である。
 沖縄豆腐はその独自の製造方法と保存方法によって高い栄養価と最高の味を引き出したものの、賞味期限が短いという課題が残っていた。
 しかし、琉球大学との共同研究により、既に10日間まで品質保持できる技術開発は成功し、全国展開まで残すところあとわずかとなっている。
 全国では島豆腐としても親しまれている「なかむら食品」の沖縄豆腐「うちなーとうふ」が食される日は近い。

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仲村の挑戦はまだ終わらない。仲村の挑戦はまだ終わらない。


 夢が夢以上に実現していく過程の中で、仲村はさらに壮大な計画を持つ。
 日々大量に出される「おから」に着目、「おからの肥料及び飼料化」への取り組みを開始したのだ。
 沖縄という伝統にこだわる仲村らしい発想、それは県内の農業・畜産業への助けになると考えたからである。 伝統の味が消え行く背景には近年の不景気によるコスト高という悩みがある。
 伝統の味は自然の摂理を利用する事によって無理なく受け継がれるはずだ、そう考えたのだ。
 既に琉球大学との共同開発に着手しており、成果も見え始めている。 仲村の挑戦はまだ終わらない。

仲村正雄
職人  仲村 正雄

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